タダヤス祖母宅。 色々と驚愕させられることの多い毎日だが、もっと驚愕することがあった。 何気なく見た新聞の日付がそれだ。 なんと工場を襲撃した時から数年経っているのだ。(色々と覚えることが多すぎて日にちまで気が回らなかったぜ……) 何となく季節が違うなとは思っていたが、爆発で重症を負ったので長期入院なのだと思いこんでいた。 まさか、何年も経過しているとは思っていなかったのだ。(次は何にビックリすれば良いんだ……) ディミトリは朝方はランニングをするようにしている。これは彼が傭兵だった時からやっていた事だ。 基礎的な体力を付けるにはランニングが一番だからだ。 それに考えに没頭できる所も気に入っている。(脳がどうやって移植されたのかを調べる必要があるな……) ランニングから帰宅したディミトリは早速洗面所に向かった。 ディミトリは脳が丸ごと移植されたと考えている。「…………」 洗面所で自分の頭をジッと見つめている。 脳を移植された傷跡を探しているのだ。きっと手術跡などが有るはずなのだ。 ディミトリは戦闘で怪我をする事が多かったので、体中が手術跡だらけだったのを思い出していた。「うーーーーん……」 手鏡をアチコチかざしてみたが、手術跡など何処にもなかった。 普通に考えて頭蓋骨を切り開かないと脳は入れ替えが出来ないはずだ。しかし、頭をいくら見てもそんな跡は無い。(んーーーー…… どうやったんだ?) 日本は科学技術だけでは無くて、医療技術も発展しているのだろう。だから、跡の残らない手術が可能だったのかも知れない。 自分が日本に居るのはそういう意味なのかと取り敢えずは納得させた。(取り敢えずは中に入れることが出来るのだから元に戻す方法も有るはずだ……) ディミトリは元の自分に戻る方法を考えることにした。 普通なら若返ったと喜びそうだが、知らない他人の身体では気味が悪い方が勝っている。 それに、こんな枯れ枝に手足を付けたような、貧弱な身体は気に入らなかったのだ。 強さこそ己の証明みたいな所のある傭兵あがりには弱いと思われるのが嫌なのであろう。(原因も理由も分からなければ、いつ消えても不思議じゃないからな……) 確かにいつ自分が消えてしまうのかを考えると恐怖で狂いそうだ。(何とかしないと……) そんな事を考えていると、
ふと、ディミトリは有ることを思いついた。「子供の頃の写真が有ったら見せてください……」「はいはい、一杯撮ってあるわよ~」 ディミトリがそう言うと、祖母はいそいそと嬉しそうに写真を取り出してきてアレコレ説明を始めた。 医者の話では記憶障害となっているので、その解決の糸口にでもなればと考えているようだ。「この時はね……」 彼女は大量の写真が収められたアルバムを持ってきて並べ始めた。 タダヤスが子供の頃の写真。何とも可愛らしい子供の写真だ。「これが小学校の入学式の時に撮ったのよ……」 親子三人で撮影された写真。タダヤスを間に挟んでニコニコと笑っている一家の写真だった。 どうやらタダヤス一家は三人家族だったらしい。「これが運動会で…… これは学校発表会で……」 運動会や学芸会という謎の行事。これは生徒の家族を呼んで見せる催しらしい。 彼女は次々と写真を示して、事細かく説明していく。 だが、何も思い出せない。「保護者会の時に……」(何だか普通の子供の写真だな……) 自分が持っている子供の頃の記憶は、クラスメートと喧嘩した事ぐらいしか思い出せない。 ディミトリの親は子供に関心が無いので、写真など存在していなかった。 学校にも家庭にも良い思い出などなかったからだ。「この時は学校で怪我をしちゃって大騒ぎだったわ……」(タダヤスの記憶の欠片でも残ってても良さそうなんだがな……) 自分が急に日本語を理解できるようになったのは、タダヤスの記憶が蘇りつつあるせいではないかと推測していた。 そうで無ければ、目覚めて数日で聞いたこともない言語が理解出来るとは思えないからだ。 しかし、タダヤスの両親の写真を見せられても、何も思い出すことは無い。「この時に貴方のお父さんが昇進してね……」(記憶が上手く繋がらないのだろうか?) 記憶は連鎖反応のような物だと聞いたことがある。 学習というのは、それを効率的に引き出すことが出来るようにする訓練なのだ。 まあ、訓練が上手なやつと苦手なやつが居るが、ディミトリは後者の方だった。「それから学校で飼育されてたうさぎが死んじゃってね……」(まあ、中学時代に習った科学の先生が言っていた事だがな) そういえば、あの先生は無神論者だと公言していたのも思い出した。 何故かディミトリは嫌われていて、良く呼
ディミトリが自室として割り当てられたのは六畳ほどの部屋だ。 元々はタダヤスの父親が使っていた部屋らしい。勉強机などがそのまま残されていた。 高校を卒業すると同時に大学の寮に入ったので、年に数回帰ってくる時以外は使わなくなったのだそうだ。「この部屋に有るものは全部使って良いわよ~」 祖母はそう言っていた。 もっとも、大した飾り気の無い部屋だった。空気を入れ替える時以外は、誰も入らなかったのであろう。 少し埃が籠もっているような気がする。 壁には昔の野球やアイドルのポスターなどが張られていた。 本棚には教科書や参考書があり、漫画本も少しだけ置かれていた。 タダヤスの元いた部屋も似たような感じだった。さすがは親子だなとディミトリは思った。 もっとも、タダヤスの部屋のポスターは、アニメのキャラクターだらけだった。「ネットが出来る環境が必要なんだがな……」 部屋を見回してみるとパソコンが無い事に気がついた。大学の寮に入る時に持っていたのだそうだ。 色々と調べてみるとインターネットに繋ぐための設備は無かった。「折角、ノートパソコンが有るのにな……」 タダヤスの祖父は物を買うとそこで満足してしまう質だったようだ。 大して使っていなかったらしい。 そこで、祖母に頼み込んで自分用のスマフォを購入し、LTE接続で使えるようにしてもらった。 手短な所でネット環境が整ったので、ディミトリは早速自分を検索してみた。『NOT FOUND』 何も引っ掛からない。 普通ならフェイスブックとかのSNSに一つくらい掛かりそうだが、見事に無いのだ。「う~ん……」 思いつくキーワードは色々試すが何も出てこなかった。小学校や中学校の名簿を調べてみたが無かった。 まるでこの世にディミトリが存在しなかったような感じさえある。「………………」 もっとも、秘匿性の高い作戦に従事することが多かったので、目立ったものは何も出ては来ないと思っていた。 暫く探し回っていたディミトリは違和感を覚えた。 だが、自分が関与した作戦は実際にネットに掲載されているのを見つけている。 もちろん、部隊名や作戦名は出てこないが、新聞記事などから推測出来るのだ。「俺の妄想では無いのは確かなんだがな……」 記事の内容と自分の記憶に齟齬が余りないことから実際に事件が有ったのは確か
(善人には向かないけどな……) 傭兵とは雇い主の命令には逆らわない。彼らが対象を殺せというのなら、躊躇わずに引き金を引いていた。 正規軍の兵士だった時も同じ。ディミトリは良心を、家を出る時に捨ててきたのだ。(漫画喫茶……) 不意にキーワードが頭に浮かんできた。タダヤスだった時の記憶が繋がったのであろう。 最初は何の事なのか不明だったが、目の前のノートパソコンを操作して理解できた。(漫画喫茶とはコミックを読む所でネットも出来るのか……) 全くの匿名では無いが、ある程度なら偽装が可能かも知れない。 彼が渡り歩いた国々にも似たような施設はあった。 ディミトリは早速自分の住む街にある漫画喫茶を調べてみた。駅前に数軒ほど有るらしい。(当然ながら金が必要だな……) 今、ディミトリのサイフには小銭が少々入っているだけだ。当然、活動資金が足りない。 この先、海外への渡航が必要になると、中学生が持っている金では足りないのは明らかだ。 タダヤスの貯金が有るらしいが、引き出すためには暗証番号が必要だった。 勿論のこと知らない。突発的に思い出すかも知れないが当てにならない。(なんてこった……) どうも、タダヤスの記憶は肝心な部分で役立たずのようだ。(まあ、金を手に入れる方法を考えるか……) それは、この国で生き抜く重要なポイントだ。(その前に…… このヒョロヒョロの身体をどうにかしないと……) パソコンを操作する手を見ながら考え込んだ。 こんなガリガリな身体では話にならない。戦闘になった時に指先だけで叩きのめされる。 そこで体力と筋力を付けるために、ランニングを始めているがそれだけでは不足なのは明らかだ。 片手でパソコンを操作しながら、開いている片手で水を入れたペットボトルの上下トレーニングを行う。 本当はダンベルが欲しかったが、直ぐには手に入らないのでペットボトルで代用していた。 何しろ筋肉がゼロに等しいので、これだけでも結構な運動になると考えていた。(なんで見ず知らずの国でこんな事をやっているっ!) 苦笑しながら今後のことなどを考えながらトレーニングを続けた。(そういえば故郷の家でも同じことをやっていたな……) 早く一人前になりたくて金のかからないペットボトルでの筋肉強化トレーニングを続けていた。 そんな彼が気に入らないの
再び病院。 翌日、ディミトリが目を覚ますと、再び病院に入れられているのに気がついた。 以前、事故の時に入院していた大川病院だ。(すっかり見慣れた天井になっちまったな……) 見慣れたと言っても、病院の天井は何処も一緒なのだ。白い塗料と飾り気のない蛍光灯だ。 部屋中に漂う消毒液の匂い。(中々、手酷い頭痛だったな……) ディミトリは手酷い頭痛で気を失ってしまったのだった。世界中がグルグル回ってたのを覚えている。 部屋での物音に気がついた祖母が、心配になって様子を見に来て見つけたそうだ。 事故の後で長いこと意識不明状態だったので心配だったのだろう。 気を失っている間に血液検査やら、脳のCTスキャンやらの検査が行われたらしい。 彼の担当の医師は鏑木医師だ。 外科が専門だが事故当時から親身になって診てくれている。 今回も前回に続いて診てくれたようだ。傍らには例の美人看護師もいる。 ディミトリは彼女に会えて少し嬉しかったようだ。「それで、タダヤス君は自分の事を思い出せて来たかね?」「いいえ、昔のことは良くは思い出せません……」「そうか、まあ…… 焦らずにね……」 診察室で向かい合うディミトリと鏑木医師。いっその事自分がタダヤスとは別人だと告白しようかと思ったが辞めた。 別人だと証明できないし、今度は違う病気だと言われそうな気がしたからだ。「頭痛は今回が初めてなのかな?」「酷いのは今回が初めてです」「酷い?」「ええ…… 軽い頭痛でしたら時々有りました」「そうですか……」「はい」「で、CTスキャンの結果を見ると、脳が腫れている感じだね……」「え?」 ディミトリはパソコンのモニターに映る脳の断面図を見せられたがよく分からなかったようだ。 医学知識が無いのだから無理もない。「んー、寝すぎた時なんかに頭痛がしたりしますよね?」「はい……」「それと似たような症状に見受けられますね」 勿論、鏑木医師も分かっていることだ。なので、分かりやすい例え話を出してきた。 彼は患者からの信頼が厚い医師と聞いている。症例を分かりやすく説明できるからだ。 これが大学出たての奴や気難しい医師だと、専門用語の羅列で意味不明な説明になってしまう。 その辺が患者の側に立つ医師との違いなのだろう。「じゃあ、長時間寝た事が原因でしょうか?」「
祖母はディミトリがトレーニング以外の時間を、ネットに張り付くようにしている現状を嘆いた。 食事中ですらスマートフォンを操作しながら何かの記事を読んでいるのだ。 ある時、後ろからそっと覗くと外国語の記事を読んでいる風だった。 もっとも、彼女にはどこの国の言葉なのか分からなかったようだ。「……」「彼は外国語を読めてるのでしょうかね?」 医師は外国の記事ばかりの所で尋ねてみた。 何処の国の記事を読んでいたのだろうかと思ったのだ。「どうでしょうか…… タダヤスが外国語に接する機会は無かったと思います」 祖母は読めているかも知れないとは思っていた。記事のスクロールする速度が遅いからだ。「何というか……」 これが写真などの画像に興味があるのなら、もっとスクロールする速度が早い気がするからだ。 日本と違って規制の無い外国のムニャムニャ画像は、お年頃の男子にとっては人気の的だ。 ある程度は仕方が無いと思う。 だが、ニュース記事らしきページを、食い入るように読んでるのは誰だろうと思ってしまうのだ。「何だか…… 私が知っている孫とは違う人になったみたいで怖いんですよ……」 祖母は日頃感じていることを医師に告げてみた。 後、夜中に洗面所の鏡をジーッと見つめているのも不気味に感じていた。「まあ、事故の影響だと思いますよ。 もう少し様子を見てみましょう」「はい……」 鏑木医師はそう言って慰めた。重症を負った患者の性格が変わるのはよく有ることなのだ。 粗暴な振る舞いで鼻つまみ者だった人物が、瀕死の重傷を負った後に温厚な性格になるなどだ。 人というのは生命の危機に接すると、色々と変化してしまうものらしい。「良く睡眠が取れていないようですから、お薬を出しておきますね」 鏑木医師はそう言ってニッコリと笑った。「はい。 お願いします」 祖母は薬と聞いて何だか嬉しそうに微笑んでいた。老人は薬を処方されるのが大好きなのだ。 飲んでいると自分が病気になっていると実感できるせいらしい。 それは生きている証でもあるからだ。 もっとも、この場合はディミトリへの薬であるが、性格が変わったのは病気のせいだと思い込めるからであろう。「それでは、次の検診は必ず来るようにタダヤス君に伝えてくださいね」 鏑木医師は祖母にそう告げた。 ただの頭痛だけでは入院は
自室。 ディミトリは早々と部屋の明かりを消してベッドの中にいた。遅くまで起きていると祖母が心配してしまうのだ。 彼は祖母に心配掛けるのはイヤなのでベッドに入って寝たフリをしていた。意識は他人とはいえ、自分の祖母に何となく似ている彼女を嫌いになれないでいる。(別に善人を気取るつもりは無いがな……) 天井に張られたポスターを見ながらフフフッと笑った。(恐らくはタダヤスの記憶が混じっているんだろうなあ……) ささやかだが他人を思いやるなどと考えたことが無いディミトリはそう考えた。(まあ、只のクズ野郎であるのは変わらないがな……) そう考えて自分の手を見た。見慣れたゴツゴツとした兵士の手ではなく、スラリとした如何にも十代の少年の手だ。(さて、これからどうしたもんだか……) 取り敢えず自分の身体に還ることは決めている。そのための手段を講じなければならない。 ディミトリが最後に覚えているのはシリアのダマスカス郊外の工場だ。まず、そこに行かなければ始まらないと考えていた。(そのためには金がいるんだよな……)(金が欲しいがどうやれば良いのかが分からん) 仕事をしようにもタダヤスは義務教育が必要な年齢だ。雇ってくれる所など無い。(銀行でも襲うか? いや、警備システムを探り出す手段も伝手も無いしな)(現金輸送車…… 同じことか……) ディミトリはベッドの中で身体の向きをゴロゴロと変えながら考えていた。(んーーーーーー……)(そもそも武器を手に入れたいが手段が分からん……) ディミトリは考えがまとまらないでいた。自分の住んでいた街では、街のゴロツキを手懐ければチープな銃であれば手に入る。 もう少し金回りが良ければ軍の正規銃ですら手に入ったものだ。 ところが、この国では銀行にすら護身用の銃は無いときた。(この国の人たちは、どうやって自分の身を守っているんだろう……) この国に住んでみて分かったのは、自分の身を護ってくれるのは他人だと信じ込んでいることだ。 その為なのか護身用の武器などは表立って売られていない。マニアなどが利用する店などで護身用と称する玩具だけだ。(そういえば…… 夜中に女の子が一人で歩いていたな……) 眠れない夜中になんとなく星を見ている事がある。 そんな時に、明らかに若い女性がトコトコと歩いているの見て驚愕したもの
何日か前の新聞報道で、自殺志願者を次々と殺した男の話を報道していたのを思い出した。 だが、報道はいつの間にか立ち消えた。 次は街なかで包丁を持って歩行者を次々と刺殺した男の話も途中で立ち消えた。 被害者なら氏名まで公表されるのに、この件では犯人の名前どころか年格好まで報道されなかった。 恣意的な報道規制が働くのだ。 この国の自称マスコミは、針小棒大で無責任な報道をするのをディミトリはまだ知らない。 彼らはニュースが大きく取り上げられれば良いだけだ。なので、報道内容に質は求めていない。 自分たちの発言に責任を持たないので、いい加減な仕事で構わないのだ。どうせ、国民もそんな事は求めていない。 身の丈に合った『知る権利』で満足しているらしい。知りたくない情報は遮断してしまう事で足りているのだ。(まあ、偉そうにふんぞり返っているのはロクデナシと決まっているがな) そう考えて、日本も自分が関わった国々と変わらず、クソッタレが牛耳っていることに安心した。 悪事を働いても平気でいられるからだ。(日本で銃を手に入れるにはどうすれば良いんだろうか……) ネットで色々と調べてみると、日本では銃などを普通の市民が購入することは出来ないのだそうだ。 ディミトリは日本の裏社会には何もコネが無いのだ。これではどうにもならない。(これがシリアやロシアなら軍上がりの武器屋から買えるんだがな……) だが、直ぐに考えを追い出した。無いものねだりしても仕方無いからだ。 ある程度の金があれば密輸する手立てもあるが、非常に高額になるのは目に見えている。(取り敢えずは自分で工夫して武器を仕立てるか……) 手元にある材料で武器を作った事はある。 戦闘地域にいると物流が当てにならないのだ。だから、手短な日用品で武器を作る訓練も受けたことがあった。 訓練と言っても元スペツナズの隊員達から簡単なレクチャーを受けただけだ。(後、訓練内容もどうにかしないと……) 日頃の運動のおかげで基礎的な体力は付いたと思う。次は実践的な訓練メニューを熟したいと考えた。(人目につかない空き家を利用するか……) 朝晩のランニングで適当な家に目処は付けていた。後はメニューと装備を用意するだけだ。 次は移動手段の確保だ。しかし、日本では車を運転できるのは十八歳以上であるらしい。それは四年
鶴ケ崎博士の研究所。 研究所と言っても洋風の屋敷だった。都内から少し離れた都市に広めの一軒家だ。 鶴ケ崎博士はこの屋敷を住居兼研究所としているのだった。 主要な駅から離れた場所にある屋敷の周りは、人通りも無く街灯だけが唯一の明かりであった。 そんな閑散とした通りを白い自動車がゆっくりと通り過ぎていく。まるで、屋敷の中を伺うかのような動きには、野良猫ですら警戒の目を向けている。 屋敷を通り過ぎ、街灯の明かりが途切れる辺りで白い車は停車した。車を運転していた人物は、車のエンジンを切って静寂の中に何かしらの動きが無いかを探るように辺りを伺っていた。 運転手は黒ずくめの格好をしていた。だが、胸の膨らみは隠せない。女性であろう事は外観で判別が出来た。 彼女は壁を軽々と乗り越え、屋敷の外壁に張り付いた。そして、周りを伺う素振りも見せずに台所の扉に取り付いた。 玄関に向かわなかったのは防犯装置が付いているのを知っているからだろう。 台所に扉を自前の解錠用キットで開けた彼女は台所に有った防犯装置を解除した。こうすると家人が家に居る事になって、警備会社に通報が行かなくなるのだ。彼女は防犯装置に詳しいのだろう。鮮やかな手口であった。 博士は独身だったのか、研究所の中は無人であった。 屋敷に侵入できた彼女は迷わずに二階に向かっていった。二階に博士の研究室があるからだ。 室内に入って中を見回す。様々な専門書が壁一面を埋め尽くしている。 部屋の中央の窓よりの部分に机があった。机の上を懐中電灯で照らし出す。机の上にはノートパソコンが一台あった。 ノートパソコンを開けて中を見たが、目的の物が見つからなかったのかため息を付いていた。そして、机の上を懐中電灯で照らして何かを探している。 やがて、引き出しを開けると外付けのハードディスクがあった。表にガムテープが貼られていて、マジックで『Q-UCA』と乱暴に書かれている。「……」 彼女はそれを手にとってシゲシゲと眺めた。やがて、彼女はそれを自分のバッグの中にしまい込んだ。目的のものを見つけたのだ。 すると、部屋の片隅で何か物音がして部屋の明かりが点いた。「!」 彼女は物音がした方角に厳しい目を向け身構えた。「来ると思ってたよ……」 暗闇から一人の狐の覆面を被った男が進み出て声を掛けて来た。彼女はいきなりの展
『ワカモリさん。 どうしましたか?』『急で申し訳ないけど、偽造パスポートを都合して貰えないか?』『ワカモリさんは日本人ですから、日本のパスポートをお持ちになった方が色々と捗りますよ?』 日本のパスポートの信頼度は高い。他の国のパスポートでは入国管理の時に念入りに質問されるが、日本のパスポートの場合には簡単な質問のみの場合が多いのだ。 スネに傷を持つ犯罪者たちには垂涎の的なのだ。『ワカモリのパスポートは使えないんですよ』『え?』『色々な方面に人気者なんでね』『ええ確かに……』 ケリアンが苦笑を漏らしていた。ディミトリが言う人気者の意味を良く知っているからだ。 公安警察の剣崎が自ら乗り出してきた以上は、ワカモリタダヤスは逃亡防止の意味で手配されていると考えていた。『分かりました。 少しお時間をください』『どの位かかりますか?』『一ヶ月……』 ディミトリが依頼しているのは偽造パスポートだ。作成するには色々と下準備が必要なものだ。それには時間もお金もかかる物なのだ。『もう少し早くお願いします。 厄介な所に目を付けられているんですよ』『警察ですか?』『公安の方ですね』『分かりました……』 中国にも公安警察は存在する。そこは欧米などの諜報機関に相当する部署だ。ディミトリが傭兵だった時にも、噂話は良く耳にしていたものだ。 荒っぽい仕事をするので海外での評判は悪かったのだ。 日本には諜報機関は存在しない事になっている。だが、日本の公安警察がそれに相当する組織と見なされていた。 もっとも、国内に居る犯罪組織や日本に敵対する組織の監視が主な任務で、海外の諜報機関のように非合法活動で工作などしたりはしない事にはなっている。だが、表があれば裏が有るように、ディミトリはそんな話は信用していなかった。 ディミトリが『公安警察』に目を付けられていると聞いたケリアンは、ディミトリが急ぐ理由が分かったようだった。『では、二週間位見ておいてください』 少し考えていたのか間をあけてケリアンが返事してきた。 偽造パスポートが出来たら部下に届けさせるとも言っていた。ケリアンは香港に居るらしい。日本国内だと身の危険を感じるのだそうだ。『しかし、人気者だとしたら日本から出国する際に、身元の照会でバレるかも知れませんよ?』 日本には顔認証による人物照会を行
自宅。 ディミトリは病院から帰宅してから部屋に籠もったままだった。 ベッドに転がって天井を睨みつけながらこれからの事を考えていた。 先日の剣崎とのやり取りで気になったことがあったのだ。 一番はヘリコプターを操縦する姿を撮影されていた事だ。 これは、常に張り付きで見張られていた事を示している。きっと、ジャンの倉庫に連れ込まれてひと暴れしたのも知っているのだろう。『人を撃った銃をいつまでも持っているもんじゃないよ』 剣崎はそう言ってディミトリが持つ銃を持っていった。(そう言えば、あれって弾が残っていなかったじゃないか……) 鞄の底から銃を見つけた時に、弾倉を確認していたのを思い出していた。その後、剣崎がもったいぶって登場したのだ。 あれは狙撃手が銃を手に持ったのを確認していたのだろう。つまり、ディミトリが銃と弾倉を触ったのを監視していたのだ。(指紋付きの銃を持っていかれたんじゃ言い訳が出来ねぇじゃねぇか……) 恐らく、倉庫からジャンの手下の遺体を回収済みだろう。遺体の幾つかはあの銃で撃ったものだ。線条痕と指紋付きの銃を持っていかれたらディミトリが犯人だと証明できてしまう。(こっちの弱みを握って何をさせるするつもりなんだよ……) 剣崎は『公安警察』だと言っていた。自分の知識の範囲内では『日本の諜報機関』との認識だった。(俺の家を見張っていたのも剣崎だったのかも知れないな……) オレオレ詐欺グループのアジトを襲った時に、何故か警察のガサ入れが有った。あれは剣崎の指示でやらせたのかも知れない。 それにパチンコ店の駐車場で暴れた時も、店の防犯カメラがディミトリを映していないも不思議だった。それも、剣崎が『故障』させた可能性が高い。ディミトリの存在を秘匿して置きたいのだろう。(金には興味無さげだったな……) 何度目かの寝返りをうって剣崎との会話を思い出していた。一兆円の金を『端金』と言っていた。 本心かどうかは不明だが、普通の奴とは違う考えを持っているようだ。(まあ、確かに人を殺めるのに躊躇いが無い奴は、手駒にしておくと便利だわな……) 便利な使い捨ての駒が手に入ったと剣崎は考えているのかも知れない。(今どき殺し屋でも無いだろうに……) どっちにしろ、まともに扱われるとは思えない。(人の目を気にしながら歩きたく無いもんだな……)
「一つは中国系で日本のチャイニーズマフィアと繋がりがある……」(ジャンの所か……)「一つはロシア系で日本の半グレたちと繋がりがある……」(チャイカの所だな……) ディミトリは何も反論せずに剣崎の話を聞いていた。「全員、君が握っている情報に彼らは興味があるそうなんだがな?」「さあ、何の話だかね……」 麻薬密売組織の資金の事であるのは分かってはいるがトボけた。どう答えても面倒事になるのは分かっているからだ。「少なくとも君を巡って二つの組織が動いている」「中年のおっさんにモテるんだよ。 俺は……」「まあ、特殊な性癖を持つ人には魅力的なのかも知れないが私には分からんよ」「そいつらが探しているのが俺だと言いたいんで?」「他に誰がいるんだ?」 剣崎はディミトリの話など興味ないように続けた。「東京の端っこに住んでる中学生が握ってる情報なんて、近所のゲーセンに入っている機種は何かぐらいだぜ?」「それはどうかね……」「俺はその辺に転がっている平凡な中学生の小僧ですよ?」「それは君にしか分からない事かもしれないね…… 若森くん」「あんた……」「前に来た刑事たちとは違う匂いがするね……」「君と同類の匂いでもするのかい?」「……」「君の言う平凡な中学生ってのは、ヘリコプターを操縦できるのかい?」 剣崎が写真を一枚投げて寄越す。ディミトリは受け取らずに落ちるに任せた。足元に白黒写真が落ちた。 そこにはヘリコプターを操縦する若森忠恭が写り込んでいた。「ヘリの操縦の特殊性は理解しているつもりだ。 機体を五センチ浮かせて安定させるのに半年は掛かるんだそうだ」「……」「最近の中学生はヘリの操縦までするのかね?」「保健体育で習ったのさ」 ディミトリは負けじと言い返した。「それともディミトリ・ゴヴァノフと呼んだ方が早いかな?」「……」 ディミトリの眼付が険しくなった。部屋中にディミトリの殺意が充満していくようだ。「あんたも麻薬組織の金が目当てか?」「……」 ディミトリは銃を引き抜き剣崎に向けた。もちろん殺すつもりだった。だが、引き金を引こうとした時にある事に気がついた。 オレンジ色のドットポイントが剣崎の額に灯っているのだ。だが、それは直ぐに消えた。「クソがっ……」 ディミトリの経験上、ドットポイントが意味するのは一つだけだ。
大川病院の一室。 ディミトリは退院をする為に起き上がっていた。安静にしていれば肩の骨は繋がるだろうとの診断がおりたのだ。 骨にヒビが入った程度の怪我では長期は入院させて貰えないのだ。他の重篤な患者用に退院させられる。 退院の為に荷物づくりをしているのだ。左手が効かないので右手だけでやっている。 着替えなどを鞄に入れていると、その着替えの入っていた鞄の底に銃があった。(え? 何故?) 銃を手にとってみるとジャンの倉庫から脱出する時に使っていたトカレフだ。弾倉を抜き出して確認してみると、中に弾は残っていなかった。(一緒に持ってきた?) 話を聞いた限りでは、身一つで病院の応急処置室に放置されていたと聞いている。それにこんな物騒な物を持っていたら、警察の方で問題視されているはずだ。(アオイが置いて行ったのかな……) ディミトリが入院している間にアオイはやって来て無い。(病室に自分は来たというサイン?)(いやいやいや…… 普通に書き置きで良いだろ……) これが見つかると拙い立場に立たされてしまう。そういう事を思いつかない女では無いはずだとディミトリは訝しんでいた。(そう言えばお婆ちゃんが玩具で遊ぶのも程々にしろと言っていたような気がする……) 祖母はコレを見て、孫の部屋にあったモデルガンを思い出したに違いない。 そんな事を色々考えていると病室の扉がノックされた。ディミトリは慌ててトカレフを背中に隠した。日課のようにやって来る刑事たちだと思ったのだ。「どうぞ」 返事をすると男が一人入って来た。だが、男は毎日やって来る刑事とは違う男だった。「やあ、若森くん…… 君に事故の事を詳しく聞かせて欲しいんだよ……」「いつもの刑事さんたちじゃ無いんですね……」「ああ、所属先が違うもんでね」 ディミトリは警戒しはじめた。刑事たちの眼付は鋭いが、この男からは違った雰囲気を感じ取ったのだ。 そんなディミトリの思惑を無視するかのように質問をし続けた。「君が道路に飛び出した訳を聞きたくてね」「ちょっと、道路を渡ろうとしただけですよ」「そう…… 君が事故に巻き込まれるちょっと前に、パチンコ店に車が飛び込んで来てね」「はあ……」「運転していた男の背格好が君にソックリなんだよ」「僕じゃ無いですよ」「パチンコ店に飛び込んで来た車は、パチンコ店に併
十代の頃に自動車の窃盗で捕まった事がある。その時に、相手の刑事に嘘を並べ立てたがどれも通用しなかった。 最初から全部バレていて全て反論されて自白させられたのだ。 自分では整合性を合わせているつもりでも警察には通用しない。何しろ悪知恵の回る嘘つき相手の商売だ。小悪党の浅知恵など通用しないのだ。 刑事たちを病室の入り口まで見送った祖母は、戻ってくるなりディミトリに尋ねてきた。「タダヤス…… お前は何をしてるんだい?」 祖母はディミトリが無断外泊していた事は言わなかったようだ。ふらりと居なくなったかと思えば、車に刎ねられて病院に入院している。何を考えているのか心配でしょうがないのだろう。 自分はどうやって病院に来たのかと尋ねたら、緊急病室のベッドの上にいつの間にか居たのだそうだ。 幸いタダヤスの顔を知っている看護師が、若森忠恭の事を思い出してくれたらしい。彼は長いこと入院していたのだ。 傷だらけでベッドの上に放り出されていたので騒動になったのも頷ける。それで警察が呼ばれたらしかった。 もちろん、祖母はディミトリの本性は知らない。タダヤスの脳に人工的にディミトリィの魂が埋め込まれているなどと知らせるつもりは無いのだ。それは彼女の為にならないだろう。「ん……」 不意に頭痛がディミトリを襲った。彼の顔がたちまち曇っていった。「痛むのかい?」「ああ、少し横になるよ……」 そう言ってベッドに横になった。この偏頭痛は副作用的なものであるらしい。 無理やり書き込んでいるので、脳の処理が追いつかず肥大化する原因になっていると予測している。脳の活動が活発になりすぎているのだろう。やがて脳が肥大化しすぎて機能停止するとも博士が言っていたような記憶がある。(それって、結構ヤバイ状態じゃないのか?) ディミトリは頭痛の理由が分かり少し焦りを覚えた。今のところはディミトリの人格が現れているに過ぎない。外見的にはタダヤスである。 ディミトリを追いかけ回す連中も事情は知っているのだろう。だから、焦っているのかも知れないとディミトリは思った。 目的はディミトリが持っている資産だ。 それは、中南米の某銀行に預けられている。百億ドル(約一兆円)にもなる金だ。 だから、魂が消えてしまう前にお宝の在り処を聞き出す必要があるのだ。(連中が躍起になって俺を追いかけ回す
看護師が出ていくのと入れ替えで祖母が入ってきた。ディミトリが起き上がって居たのにビックリしたようだ。 それでも心配だったのか、優しく声を掛けてきた。「タダヤス…… 大丈夫かい?」「大丈夫」「本当に男の子はヤンチャで困るわねぇ」「心配かけてゴメンナサイ……」 ディミトリは祖母には素直になるのだ。大好きな祖母に頭を撫でられて泣きそうになってしまった。 果たして祖母にどう説明したものかと考えていたら、病室のドアがノックされてどやどやと男たちが入ってきた。 一人は白衣を着ていたので医師だと分かったが、残りの男二人はスーツを着ていた。しかも眼付が鋭い。(こういう眼付の悪いのは刑事と相場は決まってるな……) 医者は頭痛はするかとか、吐き気は無いかとか質問していた。「こちらは所轄署の刑事さんたちだ」 そう刑事たちを紹介した。車の事故が通報されて、刎ねられた若者が連れ去られたと手配されていたのだ。 捜査していると似たような背格好の男が病院に入院しているので調べに来たらしい。「病状が安定してませんので、質問は手短にお願いしますね?」「はい……」 刑事たちが医者に頭を下げると、それが合図だったかのように看護師を従えて出ていった。「やあ、事故の事を詳しく聞かせて欲しいんだよ……」 ディミトリの方に向き直った刑事たちが尋ねて来た。「道路を渡ろうとしたら車に刎ねられたんです」「横断歩道じゃない所だよね?」「ええ…… 信号機の所まで行くと時間が掛かりそうだったので……」 ここで刑事たちは何事か耳打ちをしていた。そして、今の話をメモ書きするする振りをしながら質問を重ねて来た。「誰かに追いかけられていたと証言する人が居るんだけどね?」「いえ、そんな事無いですよ」 やはり何人かに目撃されて居たようだ。まあ、パチンコ店に車で突っ込んだのだからしょうが無いことだろう。「当日、パチンコ店に車が激突してたんだが、運転していたのは君にソックリだと言われているんだけどね?」「車の免許は持ってないですよ?」「目撃者の証言する年格好が同じに見えるだけどね?」「さあ、そう言われてもね…… 見ての通り何処にでも居る小僧ですよ?」 パチンコ店には至る所に防犯カメラが有るはずだ。それにディミトリが映っている筈なのだが刑事たちの歯切れが悪い。 ひょっとしたら、
(まあ、上書きされるのだから消えてしまうのだろうな……) 一家は全滅するわ脳は乗っ取られるわで、ワカモリタダヤスは地球上でもっともツイテナイ奴だったようだ。(しかし、見ず知らずの小僧に上書き保存されているのか……) 何だかパチモンのUSBメモリーに保存された、違法ソフトの気分に成ってきたのだった。「最近、偏頭痛が酷くないかね?」「ああ、失神してしまうぐらいに手酷いのが襲って来るよ」「その偏頭痛は副作用的なものだな」「……」「他人の脳に無理やり書き込んでいるので、脳の処理が追いつかず肥大化しはじめとるんじゃ」「すまない。 人間に優しい言葉にしてくれ……」「脳の活動が活発になりすぎている。 なら良いか?」「ああ……」「やがて脳が肥大化しすぎて機能停止してしまうかも知れんな…… ふぇっふぇっふぇ……」 博士がそう言って力無く笑い声を出した。「そうか…… じゃあ、元に戻るには自分の身体が必要と言うことだな?」「……」 ディミトリは相手に書き込みが出来るのなら、元に戻すことも出来るのではないかと考えたのだ。 それで博士に質問してみたのだが彼は俯いて黙ったままだった。「?」「……」 ディミトリは振り返って博士を見た。項垂れている。明らかに様子がおかしい。「博士?」「……」 アオイが博士の身体を揺さぶってみたが反応は無い。 彼女は博士の首に指を当てて呟いた。「死んでるみたい……」 博士は椅子に座ったまま絶命していた。シートの下に血溜まりが見えている。 ヘリコプターが飛ぶ時の銃撃戦の弾丸が腹部に命中していたのだった。「くそっ、肝心なことを言わずに……」 一番聞きたかった所を言わずに博士は逝ってしまったようだ。 ディミトリの自分探しの旅は終わりそうに無かった。見知った天井。(うぅぅぅ…… ここはどこだ?) ディミトリは眩しそうに目を開けた。眩しいのは自分の頭上にある蛍光灯のせいのようだ。 だが、視界が定まらないのかグルグルと部屋が回っているような感覚に襲われている。いつもの既視感である。(くそ…… またかよ……) どうやら、お馴染みの大川病院であるようだ。 ディミトリはジャンたちが使っている産業廃棄物処理場にヘリコプターを着陸させた。ここなら無人であると思っていたのだが、考えていた通りに誰も居なかった。ヘリコ
ヘリコプターの中。 ディミトリたちを載せたヘリコプターは川沿いに飛行を続けていた。普段、見慣れないヘリコプターが低空飛行をする様子を、川沿いの人たちは驚きの顔を向けていた。 操縦席にディミトリ。後ろの席に博士とアオイが乗っていた。「なぁ博士。 クッラクコアって手術はどうやるんだ?」 ディミトリが後部座席に座っている博士に質問をした。何か話をして気を紛らわさないと痛みに負けそうだからだ。「簡単に言えば、人の脳に他人の記憶を書き込む手術のことだ」 博士が素っ気無く答えた。アオイが吃驚したような表情を浮かべていた。「そんな事を出来るわけが無いだろ」 ディミトリは笑いながら答えた。普通に考えて滑稽な話だからだ。「じゃあ、今のお前は何なんだ?」「……」 そう言われるとディミトリも困ってしまった。何しろ自分は東洋の見知らぬ少年の中に居るからだ。 魂とは何かと言われても哲学や医学の素養が無いディミトリには無理な話だ。「世間が知っている技術では出来ないというだけの一つの話に過ぎないんじゃよ」 そう言って博士はクックックッと笑った。 どうやら博士は他にも色々と問題のありそうな手術をした経験がありそうだ。(ドローンの盗聴装置の話みたいだな……) ロシアのGRUに居た友人の話で、ドローンを使った盗聴装置の話を聞いたことがある。 ドローンからレーザー光線を出し、それがガラスに当たった振幅を解析する事で、部屋の中の会話を盗み聴きするヤツだ。既に実用化されていて、今は人工衛星を使っての同種の装置を開発しているのだそうだ。 これ一つ取っても科学技術の進歩の凄まじさが伺えるようだ。(犬に埋め込んだ盗聴装置もあったしな……) 生物の代謝に伴うエネルギーを電源に使うタイプの盗聴装置だ。これだと長い期間動作が可能になる。 これが対人間相手の技術なら、その進歩はもっと凄いことになっていそうだとディミトリは思った。「科学の世界には、表に出てない技術が山のように有るもんだよ」「クラックコアもその一つなのか?」「もちろんだとも」 人間の記憶というのは神経細胞のシナプスに化学変化として蓄えられている。その神経細胞を構成するニューロンの回路としてネットワーク化される。無限とも言える変化の連続を、人間は記憶と呼んでいるのだ。 そして、記憶と記憶を結びつける行為を